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『思想としてのパソコン』
西垣通 著
『思想としてのパソコン』について
「デザインとは、ブラックボックスを扱う際の不安を除いてくれるユーザー・インターフェイスを造形すること」 ・・・ノルベルト・ボルツ『意味に餓える社会』
パーソナルコンピューターとは、思想が肉化したものに他ならない。このアプローチは刺激的な提案である。20世紀の後半に突如現れたこの道具=メディアは、多くの人々に対し、それ自身を「操作対象」であり、また生活行為を合理化する「便利な道具」としての効用のみを認識し、とり扱うことを強いてきた。つまり、その存在(パソコン)自体が思考の産物であるという事実を封印してきたのである。 この議論は、作(編)者である西垣通自身が、こうした機器の作り手であったということとの関係が大きい。技術者が自らの思考を開示し、「考える存在」として社会に定位されること。このこと自体、これまでの人文的な知の歴史では、振りかえられることの少なかった視座である。しかしよく考えると、技術者(モノをつくる人)と思想家(考える人)の二分化は、レンズ職人=スピノザ、デザイナー=W・モリスの例を見るまでもなく、実は市場社会が要求してきたフィクションだったことに気がつく。
技術者ではない読者は、こうした告白を耳にしないかぎり、消費者(受容者)、単なる操作主体として、インターフェイスを介してこのブラックボックスに向き合うのみである。レイモンド・ウィリアムスが、かつてテレビの普及の社会的背景を分析した際に、登場の唐突さ=市場にテレビ・モニターが製品として流し込まれた際にまったくその「内容が定義されていなかった」事実を指摘した(『テレビと社会』)が、今日のパソコンの市場において、作り手の思想が全く消去されているという状況とそれはは極めて似ている。
V・ブッシュ、A・チューリングらの、コンピュータの始祖の思想は、人間の思考を対自化し、記述する試みであり、リックライダーやエンゲルバードらにおいては、それをまさに「社会的存在」である人間の相互行為の中に再構成する試みへと昇華させている。こうした作り手たちの声に、今再び耳を傾けることこそが、メディアを相対化する思考訓練、すなわちブラックボックスの蓋を開けることに結びついていく。この本は、啓蒙の魔力を避けつつ、本来のメディア・リテラシーに近づくための啓発書としての価値も大きい。