| 履歴 : |
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一橋大学社会学部卒業 → 同大学院修士課程進学・退学 |
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→ 東京大学大学院学際情報学府修士課程一年 |
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| 学びの指針 :
語りの中に潜む、言えてないことを知り、言えないことを言わず理由のないことを行わない、自然な生活態度をつくっていくことが、私の学びの根底にある動機です。
このような動機に沿うものとして、最近考え始めた問いを下に書いてみました。
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| 関心領域 : 〜コミュニケーションの基礎理論と学問倫理〜
「同じことをしていれば、分かりあっている」というコミュニケーション観は素朴にとれるのでしょうか。「同じこと」というのは、同じ行動ができているだけで足りるのでしょうか。
例えば、ある人が月曜日から金曜日まで朝七時に起きているのを見たからといって、「彼は毎朝七時に起きるのを日課にしている」とまでは言えません。土日は違うかもしれないし、実は金曜日に七時に起きたのは規則違反で規則ではなかったかもしれない...等など無数の可能性に開かれています。
しかしどんな規則に従っているのかなんて、その人に直接聞けば分かるんじゃないのか。ですが、同じ規則を語り、限られた数の行動の一致があったからといって、同じ相、同じ世界の中に生きているともまた言いきれません。たとえば、「順に2を足しなさい」という算数の命令に対し、0,2,4,...と続けてこれた生徒が、100の位で突然、104,108,112,...と書いてしまう可能性が、単なる計算ミスを超えてありうるのです。この生徒は、「順に2を足す」という命令を「100以降は4を足す」という規則だと解釈していると読み取れますが、これは正確な言い方ではないのです。なぜなら、彼はまさに「順に2を足す」という言葉をそのように書くことだと捉えており、「100以降は4を足すと理解しているのだ」という言い方は、102, 104, 106,...と書き続けることを「順に2を足す」の意味だと考える、私たちに依存した理解に過ぎないからです。「同じことをしていても、分かりあっている」とは言えないのです。
もちろん、日常ではこんなことまで分からなくたって、他人との生活を送ることはできます。しかし他人の考えを「本当に分かっている」と言えない限り、書けないはずのこともあるのではないでしょうか。今私は、論文における引用や、独創性の提示、といった学問の技術が、その不可能なことに該当するのではないかと感じ始めています。語られた材料だけで論者がどんな相の中にいるのかまで断定できないのなら、「Aは〜と述べているが、これは間違っている」と主張できないのではないか。論文を書く、ということを誠実に行うことは、果たしてできるのでしょうか。
自らの態度の反省を促すような問いを中心に、考えていきたいと思っています。
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